第167回 つたえること

若かりし頃に学習塾で国語を教えていて、クラスの中学生や小学生のなかに「文章を書くのが苦手だ」という子がいて、その理由を聞いたとき「書くことがない」というようなことをよく聞いていた気がします。

その頃は「どうして書くことがないなんていうことがあるのだろうか」と思ったりもしたのですが、最近になって何となくその気持ちが分かる気がしています。
厳密にいえば「書くことがない」のではなく「何でもかんでも書く必要はない」という感覚でしょうか。

人のコミュニケーションに関してはいろいろ感じる部分が多いのですが、特にウェブツールの発達が目まぐるしいなかで「何でもかんでも発信できる時代」になったことによる弊害はないのだろうかと最近思うのです。

長い歴史を持つ日本語という言語においては、その表現が非常に細やかな部分が英語と異なる点だと思うのですが、その特色とウェブツールの発達がかえって日本人同士のコミュニケーションにおいて問題になることもあるのではないか、ということですね。
また母国語でない英語での限定されたレベルのコミュニケーションだからこそ、やりとりがラクでいいなあ、と外国人の友人と話したりしていると感じることもあります。

そこで自分は日本語でのコミュニケーションがどうあるべきかと考えてみた結果、伝えるべきことをしっかりと考え、言葉を選んでもう少し慎重にコミュニケーションをしていきたいと以前よりも思うようになったのです。今まではヘラヘラ口をついてそれなりに語るタイプなのではないか、という自己分析、自省も含めてね。

人はもとから他人のことはよく見えるし分析もできるし、その結果として評論、評価、批判するのが誠に好きな生き物だと思います。しかしそれは時としてその人を思うという大義名分のときもあれば、ときにはそこまで伝えなくてもいい、いうなれば余計なことだったりすることもあるのではないかと思うのです。

そんなこんなを思いつつ、最近の私は人のことをとやかく言う前に、まず自分で自分が納得できるかどうか、それを丁寧に考えていきたい、そんなことを思ったりしています。

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